日本初の洋式帆船建造の歴史|三浦按針(みうらあんじん)と伊豆・伊東特集
訳)
日本語
伊東市では、毎年8月に、「三浦按針」による日本初洋式帆船の建造が伊東で行われたことを記念した「按針祭(あんじんさい)」 というお祭りが行われています。
今回は、伊豆最大級のお祭りの、名前の由来にもなった「三浦按針」にまつわるエピソードをまとめてご紹介します。
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日本初の洋式帆船を建造した「三浦按針(みうらあんじん)」ってどんな人?
三浦按針*(英名ウィリアム・アダムス)は、イギリスのメドウェイ市に生まれ、16世紀後半の大航海時代に、日本の大分県臼杵市(うすきし)佐志生(さしう)に漂着したイギリス人航海士です。
臼杵市に漂着後、徳川家康に呼ばれて、按針は病気の船長に代わり大阪城へ向かうことになります。大阪で家康によって一度は牢屋に入れられました。
しかし、航海術など西洋の技術に詳しかった按針は、家康に気に入られ外交顧問として召し抱えられました。
日本名の「按針(あんじん)」とは、「水先案内人」という意味です。
そして按針は、家康に命じられ、伊東の地で日本初の洋式帆船を建造したと言われています。
*注: 徳川家康によって領地が与えられた際に、「三浦按針」と名付けられますが、ここでは初めから三浦按針と呼んでおきます。
関連資料
世は大航海時代と天下分け目の関ヶ原の合戦
三浦按針がいた16世紀後半は、1522年にマゼランが世界一周をするなど世界情勢では「大航海時代」が始まっていました。スペインとポルトガルによって世界は二分割され、やがてイギリスやオランダを混じえた植民地獲得競争の時代となっていました。
そんな中、イギリス人でオランダ船の航海長を勤めていた三浦按針(ウィリアム・アダムス)が激しい航海の末、九州の臼杵市に1600(慶長5)年に漂着します。
日本ではちょうど天下分け目の関ヶ原の合戦があった年で、徳川家康は豊臣秀吉亡き後の権力を握るため、軍備を整えていました。
そんな時代でしたので、漂着した三浦按針が乗っていた貿易船リーフデ号に積んでいた西洋の武器にも、家康は強い関心を示していたのです。
伊東と三浦按針の関係
1601年(慶長6年)、徳川家康は三浦按針を江戸城に呼び、洋式帆船を造るように命じます。
そして造船所に適した場所探しが始まります。
実は日本では鎌倉時代に唐船を模した大船の建造が試みられていました。
鎌倉幕府第3代将軍の源実朝が中国宋出身の、陳和卿(ちん・なけい)に命じていたのです。
しかし、鎌倉由井ヶ浜(ゆいがはま)で建造された唐船は、1217年(建保5年)に海岸で完成しましたが、遠浅の海のため進水に失敗し、そのまま朽ち損じました。
このことを家康は歴史から知っていたと思われ、由井ヶ浜を造船所として選びませんでした。
そして、天城山脈を背にし材木の確保が簡単にできる場所を探し、伊東の松川河口を造船地として選び、按針と御船奉行の向井将監らを伊東へ向かわせました。
家康は、小田原攻めや江戸城の石垣を築いた際に、伊東の土地柄を聞いていたのかもしれません。
伊東にやって来た按針は、松川の河口にドックを作り、2隻の洋式帆船の造船を始めます。
Column
2024年エミー賞を受賞したドラマ「SHOGUN 将軍」と40年前にアメリカで大人気になったテレビドラマ「Shogun」
今年2024年には、「トップガン マーヴェリック」原案者が製作総指揮、俳優 真田広之さんがプロデュースと主演をつとめた、戦国スペクタルドラマシリーズ「SHOGUN 将軍」が米国テレビ界で最高峰とされるエミー賞で史上最多の18部門を受賞しました!おめでとうございます!
「SHOGUN 将軍」では、「伊東とゆかりのある三浦按針と徳川家康の物語がモデルとなっていて、世界的に按針を題材とした本作品が評価されています。
また、40年以上前に放映されたテレビドラマ「Shogun」も三浦按針が題材となっており、当時のアメリカに大変大きな衝撃を与えました。
時代小説「SHOGUN」から始まったフィクションのテレビドラマでしたが、三浦按針が主人公のモデルで、物語の舞台では伊豆など按針に縁のある土地も登場していたようです。
このドラマがきっかけのひとつとして、アメリカ国内では日本文化ブームを引き起こしたようです。
伊東の地で造られた洋式帆船「サン・ブエナベンツーラ号」
三浦按針によって、日本で建造された洋式帆船2隻のうちの1隻である日本のガレオン船が後に「サン・ブエナベンツーラ号(スペイン語:San Buenaventura)」と名づけられメキシコまで航海します。
ガレオン船とは、貿易に使われる大型の外洋可能な洋式帆船のことです。
按針が初めに造船したのは、80トンほどの洋式帆船(1604年完成)で、関東一円を測量するのに使われました。
その後の1607年に、2隻目の120トンもの洋式帆船「サン・ブエナベンツーラ号」を伊東の地で造船しました。
そして、この洋式帆船を建造した功績を讃えられ、按針は家康から250石の領地を横須賀市逸見(ヘみ)に与えられます。
1609年に事件は起こります。
前フィリピン総督ドン・ロドリゴ・ビベロたちが遭難し、上総国(かずさのくに)岩和田村(現千葉県御宿町)沖に漂着するのです。
駿府でこの話を聞いた家康は、ドン・ロドリゴに「サン・ブエナベンツーラ号」を貸し与えました。ロドリゴたちは浦賀からこの船に乗って無事に母国メキシコへ帰国することができたのです。
Column
スペイン難破船救助図
1609年9月30日嵐に遭遇したガレオン船サン・フランシスコ号は千葉県御宿町岩和田の海岸に漂着。
地元の住民による人道的且つ決死の救助作業によりドン・ロドリゴと316名の乗員が命を救われました。
その後ロドリゴたちは、37日間岩和田の大宮寺に滞在し、江戸城で2代将軍徳川秀忠と、更に駿府で家康に会いました。
さらに、家康の命でウィリアム・アダムスが伊東で建造した120トンの船がドン・ロドリゴたちに貸し与えられ、1610年6月13日浦賀を出港しました。
4ヶ月ほどで太平洋を横断し、10月27日に無事メキシコのアカプルコに到着しました。
画像:サン・フランシスコ号乗員遭難救助
伊東松川河口に造られたドッグ
三浦按針は、伊東で造船する際に、松川の河口の岸辺を造船所にしました。
伊東は造船所として①岸辺が急深であること、②砂州がよく発達した地形があるなど機械力のない時代の造船に適していたのです。
家康は造船所の場所を伊東の地に選び、三浦按針と御船奉行の向井将監らを向かわせたと言われています。
また、この砂ドックの場所について、従来の研究では松川の右岸だったのですが、地質調査と合わせた研究によるとどうやら左岸だったのではないかとも言われています。
按針の造船方法を紹介します。
<三浦按針が伊東の河口で用いた造船法>
① 河口に近い砂州の上に穴を掘り丸太を敷く。
② 船が出来上がると川をせき止め水をためる。
③ せき止めた川の水を造船していた穴に流し入れて船を進水させる。
Column
「慶長見聞録 〜唐船作らしめ給う事〜(現代語訳)」
船を造った場所は伊豆国伊東の浜辺で造船に適した場所が川辺にあった。海岸の砂州に穴を掘り、砂の上に柱を並べて敷台とし、その上に船の底部を設えた。
船体の組み立てが進むと砂を掘って船を少しづつ下げ、船が完成すると川を堰き止め、やがて水を一挙に船のまわりに導き入れて海に浸水させた。
この船は浅草川に係留されている。
徳川家康と三浦按針
三浦按針と徳川家康は大阪で初めて出会いました。
そこで、家康によって按針は取調べを受けますが、家康は次第に按針に興味を持っていきました。
関ヶ原の合戦が始まると、家康は大阪城に入り、按針たちはその間出国は許されず、約2年間浦賀に放置されることになりました。
1601年になると、天下人としての権力を握った家康は、江戸でたびたび按針と会っていました。
そうしたある日、家康は、三浦按針と御船奉行の向井将監を伊豆の国伊東(伊東市)に向かわせ、1隻の小型帆船を造るように命じました。そして、とうとう積載量80トンの洋式帆船を完成させます。
リーフデ号と比べ小さい船でしたが、徳川家康は完成にとても喜び、三浦按針は外交顧問として仕えるようになりました。
翌年から家康は、按針に2隻目の洋式帆船「サン・ブエナ・ベンツーラ号」を造らせました。
そして家康は、日本における造船技術と航海技術の発展に貢献したことを讃え、按針に2本の刀と相模国逸見(現在の横須賀市逸見)の地に250石の領地を与えました。
Column
徳川家康公愛用の西洋時計
ウィリアム・アダムスが伊東で建造した洋式帆船は、1610年千葉県御宿町沖で 難破したスペイン領フィリピンの臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロに貸し与えられ、約80人を乗せて太平洋を横断してメキシコのアカプルコに到着しました。1611年にスペイン国王からビベロの帰国への感謝の品として写真の西洋時計が贈られ久能山東照宮に今も保管されています。
写真:東海館2F三浦按針の展示室に置いてある西洋時計のレプリカ
牧野正氏と三浦按針
牧野正氏は三浦按針の研究者の一人です。
伊東観光協会専務理事であった牧野正氏は、当時按針の功績を記念した「按針祭」の実施を呼びかけ、企画や実行者としてその青春時代の多くを按針祭の盛り上げに費やします。
そんな牧野氏は、自身が海軍の出身ということもあり、同じくイギリス艦隊の艦長だった按針に次第に興味を抱き、按針の研究を始めていきます。
次第に按針の研究に情熱を燃やし、岩生成一、岡田章雄、皆川三郎、小川龍彦、井田好治、石一郎など、按針の研究をしている様々な研究者への取材に赴いたり、按針と縁のあるケント州ジリンガム市、オランダのロッテルダム、テセル、フーレ島などを独りで実際に訪れ、按針の足跡を追っていきました。
また、牧野氏は自身が行った研究や按針祭についてまとめ、『三浦按針の足跡』や『青い目のサムライ 三浦按針』を出版しました。
按針についてあまり詳しくない方や子供用に絵本『青い目のサムライ 三浦按針物語』も製作しました。
また、牧野氏のことは、東海館の三浦按針の展示室でも紹介されています。
伊東の地で、按針の研究を始め、按針を追って各地を冒険した牧野氏も、按針を語るうえで欠かすことの出来ない人物の一人です。
Column
(復刻版)青い目のサムライ 三浦按針物語
江戸時代に活躍する三浦按針の生涯をわかりやすく英語と日本語でまとめられた絵本です。
文は牧野正さんで、絵は森哲郎さんが携わりました。
伊東市街地にある観光名所の東海館などで販売しています。
とっても分かりやすい絵本ですので、ぜひ読んでみてください。
三浦按針と関わりのある観光スポットやイベントの紹介
①伊東市街地を流れる「松川(伊東大川)」
三浦按針は、伊東市街地の中心を流れる松川を活用してを造船所を作ったと言われています。
伊東市では、毎年この松川沿いで「伊東祐親まつり」や「タライ乗り競走」などの観光イベントも行われています。
②「按針祭」(毎年8月8日、9日、10日)
三浦按針が伊豆・伊東で日本初の洋式帆船を建造したことを記念して毎年8月に行われる伊東最大のお祭りです。
按針祭で行われる海上花火大会は圧巻ですよ。
③「按針メモリアルパーク」
④「唐人川」
按針メモリアルパークには、彫刻家重岡賢治氏の作品があります。
また近くには、唐人川(とうじんがわ)が流れています。この「唐人」とは、「三浦按針」のことかもしれません。
⑤「東海館」
東海館では、三浦按針の展示室や三浦按針に関する本の販売などをしています。
⑥三浦按針にちなんで名付けられた「あんじん通り」
大川橋を渡りまっすぐ南に進むと「あんじん通り」商店街があります。ヤマモトコーヒーなど朝から開いている純喫茶もありますよ。
⑦サン・ブエナベンツーラ号の模型がある「伊東市役所」
伊東市役所には、三浦按針が造船した「サン・ブエナベンツーラ号」の想像模型が一階ホールにありますよ!
⑧毎年9月に行う「生誕祭」
伊東市内では、三浦按針の生誕日(1564年9月24日)に合わせて毎年9月下旬に「生誕祭」を開催しています。
※写真はイギリスメドウェイ市の「聖マグダレン教会」。伊東市にはありません。