伊東祐親ゆかりの地in伊東

伊東祐親ゆかりの地in伊東

今話題になっている伊東祐親や八重姫。

伊東市には彼らに関係する「ゆかりの地」が数多く存在しています。


今回は、各スポットを写真付きでご紹介します!


伊東祐親ゆかりの地の手作りマップを公開しました。

旅のお供にぜひご活用ください。

手作り祐親マップ-20220228.pdf

音無神社(おとなしじんじゃ)

音無神社
音無神社

平治の乱後、伊豆に流された源頼朝は、一時、伊東の「北の小御所」で暮らしていたといわれています。
その時に出逢ったのが伊東の武将である伊東祐親(いとうすけちか)の娘八重姫。

愛し合う二人が密かに会っていた場所がこの神社のある「おとなしの森」だったと伝えられ、対岸の「ひぐらしの森」は、頼朝が八重姫に会うため日暮れを待った場所だといわれています。
やがて二人の間には男の子が生まれ、千鶴御前(千鶴丸)と名付けられたが、伊東祐親の怒りに触れて殺されてしまい、二人の仲も引き裂かれてしまったという言い伝えがあります。



東林寺(とうりんじ)

東林寺
東林寺

祐親が、わが子祐泰(すけやす)の死を悼んで菩提寺にしたといわれる東林寺には、河津三郎の墓と曽我兄弟の墓といわれるものがあります。

昭和34年に、ここが整備された記念に、大日本相撲協会の一行により、供養のための横綱土俵入りなどが行われ、記念碑が建てられました。

東林寺には、この他に、本堂の一角に、伊東祐親の木造が安置され、伊東祐親や河津三郎の位牌も拝むことができます。

最誓寺(さいせいじ)

最誓寺
最誓寺
千鶴丸地蔵尊
千鶴丸地蔵尊

伊東祐親の娘八重姫は、流罪により伊豆に流された源氏の嫡流である頼朝と密かに恋仲となり、千鶴御前(千鶴丸)を授かりました。

しかし、平家に仕える父祐親の怒りに触れ、千鶴御前は松川の上流(稚児が淵)に沈められ殺されてしまいます。

その後、八重姫は江間小四郎に嫁がされるも、千鶴御前の菩提を弔うため夫の江間小四郎に乞うて西成寺(後の最誓寺)が創建されました。
本堂には、八重姫が奉納したという千鶴丸地蔵尊が安置されています。


稚児が淵(ちごがふち)

稚児が淵
稚児が淵

伊豆に流された源頼朝と、伊東の領主祐親の娘八重姫との間に恋が芽生え、やがて二人のもとに生まれた愛児は千鶴御前(千鶴丸)と名付けられました。しかし、平家に仕える祐親の怒りに触れてしまい、千鶴御前は伊東大川の上流の淵へ沈められてしまいました。

淵の名は、くもが淵、とどろきが淵、松枝が淵などいろいろに呼ばれてきましたが、今では稚児が淵の名が一般的で、このあたりがその雰囲気を一番よく伝えています。

物見塚公園(ものみづかこうえん)

物見塚公園
物見塚公園

伊東市役所に隣接し、伊東市街地から初島まで望むことのできる小高い丘の上の公園です。
伊東家の館があった伝えられることから祐親の像が置かれたほか、物見ケ丘のシンボルである物見の松や尾上柴舟(おのえさいしゅう)の歌碑などがあります。

伝・伊東祐親の墓所(でん・いとうすけちかのぼしょ)

伝伊東祐親の墓
伝伊東祐親の墓

伊東家は、藤原家を本姓とする一族で、伊東祐親が活躍した平安時代後期には、伊東のみならず、河津町や伊豆市の一部を支配していました。
祐親は、同族である工藤祐経(くどうすけつね)との世襲のもつれから、赤沢付近で、嫡男河津三郎祐泰が討たれており、このことが「曽我兄弟の仇討ち」につながっていきました。
また、伊豆に流された源頼朝を丁重に預かっていましたが、娘八重姫との間に出来た千鶴御前(千鶴丸)に対し、苦渋の決断をしいられたと言われています。
源平合戦では、頼朝から勢力を増す源氏側に着くことを打診されましたが、平氏への忠義をつくし、自刃したと言われています。

葛見神社(くずみじんじゃ)

葛見神社1
葛見神社1

葛見神社は、伊東氏の尊崇と保護を受けた神社で主祭神は葛見神です。
かつてこの辺りは「葛見庄」と称され、伊東氏の初代家次が社殿を造営し、京都の伏見稲荷大社を勧請して以来、神威を高めてきました。
伊東氏の菩提寺である東林寺が別当寺を勤めていましたが、明治の神仏分離によって東林寺の僧侶が還俗して朝日氏を名乗り、以来朝日家が神職を世襲しています。

日暮八幡神社(ひぐらしはちまんじんじゃ)

日暮八幡神社
日暮八幡神社

源頼朝は、流人時代の約20年の一時期、伊東の「北の小御所」に暮らしたといわれています。

その時、伊東領主・伊東祐親の娘八重姫とのロマンスが生まれました。
二人は対岸の「おとなしの森」で密かに逢瀬を重ね、その折頼朝が日暮れを待ったのが、ここ「ひぐらしの森」であったと伝えられています。
二人の愛は、千鶴丸の誕生を迎えましたが、平家をはばかる祐親によって、仲を引き裂かれ、多くの悲劇の中ではかなく消え去りました。

河津三郎祐泰の血塚(かわづさぶろうすけやすのちづか)

河津三郎祐泰の血塚
河津三郎祐泰の血塚

1176(安元2)年10月、伊豆に配流された源頼朝を慰めるために、伊豆・駿河・相模の武士たちが奥野で巻狩りを催した。その帰り道、河津三郎祐泰は所領問題で恨みを抱く工藤祐経の指図によって近くの椎の木三本で待ち受けていた大見小藤太・八幡三郎に射殺されてしまう。
これが世に知られる曽我兄弟仇討ちの発端になった出来事です。
後に、河津三郎祐泰が射殺された場所に、供養のため積石塚と宝篋印塔一基を作り、血塚として伝えられてきました。

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