伊東文学散歩

伊豆を愛した文人墨客や芸術家は多く、特にいで湯のふるさと「伊東温泉」には多くの文人や芸術家たちが寓居をもとめ、また漂游にうち過ごし四季それぞれの風物・人情を詩情おもむくままにうたい、時には甘く、時には悲しくそして美しく、人々の心に語りかける数々の名作や逸話を生んでいます。


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伊東公園の木下杢太郎碑

伊東駅裏の小高い丘の上に、郷士の生んだ偉大な文学者、木下杢太郎の文学碑が建っています。
文学碑と呼ばれることが多いのですが、厳密に言えば多面的な活動をした杢太郎の全人生を象徴する杢太郎記念碑です。
このあたりは戦前には李王家の別荘でもあった所で、現在は伊東公園になっています。碑は伊東市街を一望に見わたせるなだらかな頂上に、昭和31年10月21日に杢太郎碑建設委員会の手によって建立されました。


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北原白秋碑

北原白秋は福岡県柳川市出身で、杢太郎と同じ明治18年生まれです。
39年に新詩社へ入り、与謝野鉄幹や杢太郎らと一緒に五足の草鞋で天草旅行をして親交を深めます。
パンの会・スバル創刊など青春時代の文学活動では、杢太郎と白秋は常に密接に結びついていました。そういう古い時代からの親友であった杢太郎を通じて白秋と伊東とのつながりができ、白秋はしばしば杢太郎の生家を訪れただけでなく伊東には長く滞在していたこともあります。


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尾崎士郎文学碑

昭和8年3月より都新聞(現在の東京新聞)紙上に連載された「人生劇場・青春編」は当初さした評価を受けていませんでしたが、同10年川端康成の賛辞を得るにいたり爆発的な人気を浴びました。
軍国主義華やかな重苦しい時代のなかで強く明るく生きぬく青年主人公・青成瓢吉には作者自身の面影を多分に宿しているといっても過言ではありません。
この青年小説「人生劇場」の作者・尾崎士郎は昭和19年10月に東京・大森から伊東へ戦時疎開をしてきました。当時、伊東在住の友人のすすめにより子供の療養のために住むことになるのがきっかけでしたが、昭和28年3月に東京へ移転するまでの約10年間を伊東で過ごしています。
この間、朗々たる浪漫精神の持主であった彼は戦争-終戦-その後の混乱期と激しく移り変わる世の中を、伊東温泉より眺めながら「天皇機関説」「早稲田大学」「ホーデン侍従」などの力作を書き続けました。


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与謝野鉄幹・晶子と一碧湖

鉄幹・晶子が中心となった「明星」では、郷土伊東の生んだ詩人木下杢太郎や、伊東音頭の作詩家でもある北原白秋、吉井勇、高村光太郎など多彩な同人が活躍していました。明星が百号をもって廃刊した以後も夫妻の創作意欲は衰えませんでしたが、特に晶子は芸術一般のみならず、教育問題・婦人問題などあらゆる分野ではば広い活躍をしていました。
与謝野夫妻と伊東との深い結びつきができたのは夫妻にとっては晩年の昭和に入ってからのことです。伊豆を愛して、一碧湖畔に終生の住処を築いた嶋谷亮輔の抛書山荘を、夫妻は毎年のように訪れるようになりました。嶋谷夫人が新詩社の同人であった縁にはじまりますが、やがて家族ぐるみの付き合いとなり数日の滞在を繰り返すことになります。
昭和10年の鉄幹の死後もそれは続き、嶋谷氏の案内で大室山・川奈ホテル・富戸など周辺にも出かけて歌を詠み、夫妻が一碧湖を中心にして伊東で詠んだ歌は数百首にのぼります。それらの歌は昭和6年以後、新詩社の同人誌であった「冬柏」に掲載されています。
最初の頃は熱海から船で来たりしたが、温泉好きの夫妻は伊東へ来ると、新詩社同人の岡崎氏の別荘(和田湯近くにあった)で温泉につかるのが例になっていました。
船から見た伊東の歌や、岡崎別荘での歌、新井の宝専寺そのほか市内各地で詠んだ歌も数多く残されています。


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高浜虚子と米若「よねわか荘の虚子句碑」

尾崎士郎碑の近くにある旅館「よねわか荘」の玄関横に、高浜虚子の句碑があります。
俳句の弟子の米若師匠から旅館の開業祝いに令嬢とともに招かれた虚子が、当時館内に自噴していた温泉とその湯質のよさに感嘆して、その場で一句よんだもので昭和26年のことです。その年の8月、伊豆にふさわしい伊豆石を使って旅館の玄関わきに建立されたのがこの句碑です。
高浜虚子(本名・高浜清)は、明治7年2月に愛媛県松山市に生まれ、同郷の正岡子規に師事して俳句雑誌「ホトトギス」を明治31年に子規から受け継ぎました。以後、明治・大正・昭和の3代にわたって、近代俳句史上に不滅の足跡を残しました。

「ほとヽぎす」 伊豆の 伊東の いでゆこれ